RED YELLOW&BLUE ELECTRIC MUSIC LIFE/ bluedelic

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〜祖父(戦没者)の足跡を追い、出会ったメッセージ~

 

www.bbc.com

gendai.ismedia.jp

こんにちは

 

朝晩、気温が少し下がり肌寒さがありますね。

さて

最近ちょっと音楽とは関係ない事を書いてますが

この前、上の不発弾のニュースがありました。

 

最近、この人間魚雷の回天の事も知りましたが

もうちょっと戦争について掘り下げた事を

書きます。

 

今回は、ほぼ自分のための記事ですが、

 最後には、どなたにでも通じるというか 戦争体験者がどんどん亡くなっていく中、 戦争の記憶がどんどん薄れていく現代人、 今現在のコロナ禍でいつの間にか 持って行かれない方向性、趣味やビジネスの前に 最前で注意しなければいけない事に繋がる内容になっています。

2020-10-15から1日間の記事一覧 - RED YELLOW&BLUE ELECTRIC MUSIC LIFE/ bluedelic

前回の記事で、あんでるせん というマジックを見せる

茶店の事を書きましたが

実は、この喫茶がある川棚という地に

 

特攻隊の訓練所があったみたいですね。

 

 こうやって、点の情報がつながっていくシンクロに

自分は何事もすごく興味が湧いてくるのです。

 

ここのページに↓

www.asahi-net.or.jp

 太平洋戦争中、小串に置かれた海軍特攻隊から飛び立ち遠く南海の果てに散った三千人もの隊員を顕彰する碑です。南海の激戦地コレヒドールと沖縄の石をつかって建立されました。
今でも訪れる人の姿が絶えません。

【全国の若人で震洋特別攻撃隊、伏龍特別攻撃隊を編成。震洋特別攻撃隊は直接敵艦に体当り。

全長3メートル。時速25キロ以上。約7000隻。
伏龍特別攻撃隊は水中から奇襲攻撃】

 

と書いてありました。

 

 あっ、、

最初に書きますが、前の自分なら

こういう話題は避けるというか

興味もぜんぜんなく、少しだけ、

かすかな☆チャラさ☆(ポップ)を求めている人間で

こういう重いテーマは興味もありませんでした。

数ヶ月前の自分でも興味なかったです。

 

 が、戦没者の祖父の事が気になり、調べているうちに

まるでドラマなどで

”親が実の親ではなかった”みたいな衝撃と同じくらいの

アニメでいう壁紙が突然白くなるような

なんとも言えない喪失感、悲しさというか、感情が湧いてきました、

知らぬが仏だと思うくらい。

 

 自分の祖父が戦争で亡くなった話を前書きましたが

少し記憶が定かでない事もあり、もう一度確認のため、

 親に尋ねたり、

ちょっとネットでもいろいろ調べてみたのです。

 

 あれから仏壇の奥にある書類を見たら

祖父の昭和20年くらいの戦争時に書かれた遺書などあり、

じっと見ていたら、どこの、どの部隊へ居たのかも書いてあり、

ネット時代、もしかして検索したら出てくるのでは

と思い検索かけたら

 

いろいろ表示され、出てきたのです。

すごいですよね、世の中調べると必ず出てくる不思議。

もしも人のウケ狙いだけで世の中が構成されていたなら

こういう情報はないと思うと感謝です。

 

~部隊とか、数字で○○部隊とかも書いてあり、

ネットで調べてみたら出てくるのですよね、

 

びっくりしました、

 

こうやってリアルに出てきて

今までぜんぜん気にしていなかったことが

リアルにあった事なんだって、

調べれば調べるほどリアルな情報が出てきて、ちょっとつらいものがあります。

 

(今まで何も知らずに生きていて、知らないほうがいいのか、

忘れたい と思えるほどちょっとリアルです。)

 

 で、家に残っている祖父の招集された時に書かれた遺書などの

直筆の文献を見ていたら、

 

祖父は大阪から、最初は広島の暁部隊へ入り、宇品という所に配属、

www.cf.city.hiroshima.jp 最初は部隊で食料供給のほうをやっていたみたいですが

数ヵ月後さらに召集がかかり、そこから何処へ配属されたのか

わからず、祖父の最後の手紙の消印が長崎県だったそうです。

 

で、戦後、2年くらいたっても国からも何も連絡がつかず、所在もわからず

はっきりした情報も不足し、国の機関へ問い合わせたら、

 書類上では、フィリピンのレイテ島の開戦で戦死したとの

通知で、この戦いは資料によると昭和20年 7/1日 で、

この戦いの参加者は、

ほぼ全員玉砕したとのことで、自分の祖父も

この時に亡くなったと”記録”ではそうになっています。

 

でも漠然とした情報で、祖母は、

祖父がもしかして何処かに生きているかもしれない、

何十年も消息不明ですので、本当はどこかで生きていて

くれれば、という期待も少しあったみたいです。

 

 祖母が生きている時、祖母が

フィリピン、レイテ島まで、

現地へわざわざ手がかりを探しに行ったこともありいろいろと調べましたが、

手がかりも何もわからなかったそうです。

  自分も、ネットでレイテ島の戦いの記事、動画を見ていたら、

戦闘機の特攻隊が、真下に垂直に戦艦に体当たりする攻撃があり、

その映像を見ていたら、これは映画でなく、ひょっとして

祖父が参加していたかもしれない、

どこかでひょっとしたら映像に出るかもしれない

とてもリアルに自分ごとのように思えてきました。

(当時のアメリカ側からの視点の記録動画が最近、ネットでたくさん見れるので、

何か出てこないか、つい見てしまいます。)

 

そして、現代の自分達が特攻隊について思うことが、

アメリカも、命を捨て、捨て身で攻撃する神経が理解できないと、

書いてありました。↓人の命を武器にするなど現代からすると

まともな神経ではないですが、当時の気風が本当にわかりませんです。

レイテ島への上陸作戦を実行したレイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なもの」と表現し、「敵が100機の航空機を保有している場合、自殺的急降下攻撃に用いて艦船100隻を炎上させるかもしれない」と考えたそうです。

連合国軍第3艦隊の司令官を務めていたウィリアム・ハルゼー・ジュニアは、「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と証言しています。

honcierge.jp

youtu.be ↑戦艦へ特攻する映画ではない、真実の映像です。

 

それで、話し戻り、数十年前の戦死した祖父の情報があまりにないので、

ある時母が、霊能者とうかイタコさんというか、

そういうのがわかる方へお尋ねする機会があったみたいで、尋ねたら

  その方が言われるには、

 

「この方は、長崎県の沖のほうで亡くなられた。

海の中に沈んだ姿、魚雷?船で沈んだ姿が見えます」と言われたそうで、

その時言われた言葉をメモしていたみたいで、

 

今自分がそのメモを見たら、

日付けと亡くなった時間まで書いてあり、

(国の正式な死亡報告書には、昭和20年 7/1 と書いてありますが、)

 

こちらのメモには、本当に亡くなった日が

 

昭和20年 2月1日と書いてあり、

 

恐る恐る 今、ネットで

”特攻隊” ”昭和20年 2月” で検索してみたら出てきたのです。

 

kamikaze.wiki.fc2.com

 ページに1/31日 ↓このような記録が出てきて、

 

1.31 特攻艇
-
- - - - - 駆潜艇
一一二九号
命中
沈没 -

 

 

 で、特攻艇ってなんだって思い検索したら

こんなのが出てきて、ボート型の爆弾載せた玉砕の船だそうです。

www3.nhk.or.jp

その特攻の玉砕するボートの訓練所があり、

川棚って出てきたのです。

最後の祖父からのハガキの消印が長崎県でしたので

ピンときました。

( 特攻隊にも戦闘機、小さい潜水艦型、

爆弾積んだボートタイプがあったみたいです。)

 

 この記事にも書いてありましたが、

戦争から生き延びた方のインタビュー見ていたら

あの時は、どうにかしていた、今考えたら

変だった、と書いてあり

 

 なんだかな、こんなにも人は集団心理で

操作されたのかなって、虚しくなりました。

  

 そして、調べているうちに

うちの祖母も、国の記録では大雑把でレイテ島での決戦とだけで

はっきりしていなく、

霊能者でも本当か証明することもできない、真実を検証することも

できないので、

 そこでまた、

ふと、”戦没者”で”行方不明者”ってどのくらいいるのだろうって

またこの2つのワードで検索かけてみたら、また出てきました。

シベリア抑留 - Wikipedia

シベリア抑留

というワードが出てきて、

 

第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。

ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した[1]。このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人。

 

 終戦後、ソ連に捕虜として連れ去られた人が、こんなにいるんですね、

こんな歴史があった事ももうまったく知らずに、

自分が本当に情けなくなりました。

 

 

www.mhlw.go.jp

先の大戦中に海外で亡くなられた方の死亡認定は、各部隊長からの死亡報告を基に行われていました。

しかし、大戦末期は内地との通信が途絶するような状況で死亡報告できないケースも少なくなく、その場合は戦後、元の上官や同僚が引き揚げてきた際に聴き取りを行って死亡認定の事務処理をしていました。

この聴き取り資料は、亡くなられた状況や病気の様子などが記載された貴重な歴史資料であるため、閲覧できるようにしました。

《資料の概要》

  •  資料総数 延べ4,296名分

 

でその中で名前がわかった行方不明者が約4000人いました、

そこで検索かけてみましたら 

 祖父の名前に似た人が出てきて、この可能性もあり、

またこちらへ電話で尋ねてみるつもりです。

 

 

 

youtu.be

youtu.be

 第二次世界大戦って、原因や経過って現代人は知らない方が

ほとんどかもしれませんが現代に生きてる者は

一度は見たほうがいいかもしれません。

 

細かいことをなくし、

この戦争を簡潔に書くと、

当時は日独伊で同盟を結んでいて、

景気や政治が最悪で経済的に困窮していたドイツと

イギリスとの戦いからはじまり、

アメリカに応戦を頼むけど、

 アメリカは中立と法律で決めていたが、

アメリカが参加するきっかけとして、

日本に真珠湾を攻撃させたそうです。

 

  で、当時の同時代の日本は、同じように、

世界恐慌の影響を受け↓国内がこのようになってたそうですが、

 

なんか コロナ で経済がまわってない今の状況と似てませんか?

 

太平洋戦争の原因~石油でも満州国でもなく~

1929年の世界大恐慌の波が日本にも押しよせ、未曾有の大不況に陥ったのである。

食糧難で欠食児童が増え、農村では娘の身売りが横行し

、餓死者まで出ていた。

特に、農村部は悲惨だった。農作物の価格が暴落する一方、

工業製品の価格が高止まりしたからである。

ところが、政府は失策つづきで、国民の不満はつのるばかりだった。

 

 で、また上のページより借用すると

■国民の暴走

ただ、「太平洋戦争の原因」を考えるとき、ぬぐいきれない疑念がある。

軍部の暴走?

そうではなく、「国民の暴走」。

たとえば、日本が満州事変を起こし、満州国を建国し、国際連盟を脱退し、国際的孤立を選んだとき、国民は政府と軍部を非難したか?

ノー!

国民は「ちょうちん行列」で祝ったのである。

さらに、国際連盟の総会で、外相の松岡洋右が、

「日本政府は日中紛争で、国連に協力したのに、もう限界だ」

と大演説をブチあげると、帰国後、国民的英雄となった。

こんな大衆に迎合し、戦意を煽ったのがメディアだった。有識者で、これに異を唱えたのは、東洋経済新報の石橋湛山(たんざん)ぐらいだった。

当時、松岡洋右が演説でブチ挙げた、

「満蒙(満州と蒙古)は我が国の生命線である」

が国民の流行語になったが、石橋湛山はこれに真っ向反対したのである。

「我が国の満蒙の特殊権益を無理押ししても、結局は、中国民衆のナショナリズムにつぶされる」

これは、単なる道義論ではなく、冷徹な国益論であることに注意が必要だ。だからこそ、一聴に値するのである。

それゆえ、太平洋戦争の(間接)原因を、政府と軍部だけに押しつけるのはフェアではない。むしろ、政府は、国民とメディア、つまり民意を無視できなかったのである。

 

 どのようにして戦争になったのかが書いてあり、

同じことをしないように、

繰り返して不幸の連鎖が起きないように

いつの間にいろいろと巻き込まれないように、

しっかり知っておかなければいけないと思い

今回書きました。

 

 

youtu.be↑ BGM無しで無音で見たほうがいいかもです。

www.youtube.com最後に 調べているとき特攻隊について映像があり見てみたら、

 当時の特攻隊の人は、いやいやで行ってなかった、国のために誇りをもっていた

みたいな事を言われていますが、

当時は現代みたいな情報なんてもちろんなく

戦争の全体図なんてわからなかったと思いますが、

 誇りをもって特攻に自ら志願と言われると

どうしたらいいのか、となんとも複雑になります。

(上で争いの指揮する人は安全なのです、誰かは指揮しな

ければいけない。下は何も知らずただ純粋に行動する。)

 確かに、現代の若者は、当時と比べると、

のほほんと生きていると思いますが、それと戦争することは関係はないと

思います、けど、この当時の特攻隊の方々の志、心意気、

自分達の生き様が、後の世代の日本人の生き方に影響を与える、頑張ってくれる

という言葉が胸を打ちました。命をささげて心意気を伝えた行為。

 戦争や特攻隊も本当に馬鹿げたやり方でよくなかったですが、

この時代に生まれた魂は、短い人生でも

何か伝えるために生まれてきた方々ばかりかもしれない、と思い、

実際、自分が調べていくうちに心が洗われた感じになりました。

 あと、環境問題ってこういう特攻隊の方々の志と似てるようにも思えてきます、未来の世代への橋渡し。

今度、もしも あんでるせんへ行く機会がありましたら、

この川棚の特攻隊の記念碑までお参りに

行ってみたいと思いました。

 

 再度、この歌「教訓1 」は、現代人にもですが、

戦没者への子守歌のようにも思えてきました。

これってひょっとして 現代人へのメッセージではなく、

もう終わったよ、頑張らなくていいよって魂への鎮魂歌かもしれないです。

まだ若い兵隊さんが心の中で、本当の本当は、 こんな言葉をかけてほしかった

かもしれない、そう思えてきました。 当時はけっして言えない言葉の数々、 赤ちゃんが寝付くように亡くなった魂への鎮魂歌。

www.uta-net.com

 

 

 

youtu.be

webronza.asahi.com

 参考資料。日本兵として戦った朝鮮人の人もいたみたいですね。

今回、いろいろ調べているうちに 普段、年配者が自分の職業とは関係ない社会政治問題を扱ったり、討論している姿はどちらかというと、傍観する事が自分はわりと多かったですが、政治とか周りが気がつかないうちに、サラッと方向性を決められて、いつのまにか争いを仕向けられたりしたり、よく討論する事、冷静になること、こういう事を知る事もとても大事なんだというがよくわかりました。

 

 

 

youtu.be戦争前の日本だそうです、とても風情がある景色、町並みです。

タイムマシンで時代を覗いているような鮮明な映像と音質です。

よい風景です。

 今回の選曲、ちょっと時代が

違うかもしれませんが。

youtu.be

 もう少ししたら、

また少しのチャラさで、音楽へ戻ります♪

 (今回はすごく大事な事でしたので)

 

toyokeizai.net

 

 

globe.asahi.com